盧程(Lú Chéng)

説明

 (?ー?)【安定郡】三水縣の人。【盧禽】、【盧芳】の弟。25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなった後、【單于輿】に招かれた盧芳と共に匈奴の地に入った*1。そこで盧芳が單于輿により漢帝として擁立させられた際に、【中郎將】に任じられた*2

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳與兄禽、弟程俱入匈奴

*2:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 以程為中郎將,將胡騎還入安定。

李興(Lǐ Xīng)

説明

 (?ー31年)【盧芳】勢の武将。五原郡の人。25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなり、各地で多くの群雄が挙兵する中、同様に将軍を自称して挙兵した*1

 28年(建武4年)、盧芳擁立を望む【單于輿】と和親し*2、翌29年(建武5年)、單于輿の求めに応じ【閔堪】と一緒に盧芳を迎え、共に五原郡九原縣に入り拠点とした*3

 しかし、31年(建武7年)冬、理由は不明だが盧芳に兄弟諸共殺害された*4

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 初,五原人李興、隨昱,朔方人田颯,代郡人石鮪、閔堪 ,各起兵自稱將軍。

*2:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 建武四年,單于遣無樓且渠王入五原塞,與 李興 等和親,告興欲令芳還漢地為帝。

後漢書』巻八十九南匈奴列傳第七十九

 單于以中國未定,欲輔立之,遣毋樓且王求入五原,與假號將軍李興等結謀,興北至單于庭迎芳。

*3:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 五年,李興、 閔堪 引兵至單于庭迎芳,與俱入塞,都九原縣。

*4:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳後以事誅其五原太守 李興兄弟,而其朔方太守田颯、雲中太守橋扈恐懼,叛芳,舉郡降,光武令領職如故。

隨昱(Suí Yù)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下の武将。五原郡の人。弟は【隨憲】。25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなり、各地で多くの群雄が挙兵する中、同様に将軍を自称して挙兵した*1が、その後、盧芳の配下となっていた。

 36年(建武12年)、盧芳の雲中郡攻略時は九原縣の留守を守っていた。しかし、盧芳が敗北すると裏切り、投降をするように脅迫をした*2。37年(建武13年)2月、盧芳は輜重を捨て10数騎の兵のみを連れて匈奴に逃れたため、残りの軍をそのまま取り込んだ*3。【程恂】を【光武帝】に使者として遣わし、五原郡の太守に任じられ、鐫胡侯に封じられた。*4

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 初,五原人李興、隨昱,朔方人田颯,代郡人石鮪、閔堪 ,各起兵自稱將軍。

*2:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 十二年,芳與 賈覽共攻雲中,久不下,其將隨昱留守九原,欲脅芳降。

*3:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳知羽翼外附,心膂內離,遂棄輜重,與十餘騎亡入匈奴,其眾盡歸 隨昱。

*4:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 昱乃隨使者程恂詣闕。拜昱為五原太守,封鐫胡侯,昱弟憲武進侯。

隨憲(Suí Xiàn)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下の武将。五原郡の人。兄は【隨昱】。36年(建武12年)、隨昱が【光武帝】に鐫胡侯に封じられた際に、一緒に武進侯に封じられた。*1

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 昱乃隨使者程恂詣闕。拜昱為五原太守,封鐫胡侯,昱弟憲武進侯。

閔林(Mǐn Lín)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下の武将。代郡の人。弟は【閔堪】。40年(建武16年)、匈奴の地から高柳縣に戻った盧芳から【光武帝】への降伏の使者として遣わされる*1光武帝からは代郡の太傅に任じられたが、翌41年(建武17年)、盧芳が光武帝に叛くとそれに従い数ヶ月戦った*2

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 十六年,芳復入居高柳,與 閔堪 兄林使使請降。乃立芳為代王,堪為代相,林為代太傅,賜繒二萬匹,因使和集匈奴

*2:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳自道還,憂恐,乃復背叛,遂反,與 閔堪、閔林相攻連月。