盧芳(Lú Fāng)

説明

 (?ー?)字は君期。安定郡三水縣の人で左谷に住んでいた。兄は【盧禽】、弟は【盧程】。新の時代、人々が漢を思慕しているのを知り安定郡で【武帝】の曾孫の劉文伯と自称していた*1。新朝末期、安定郡以西で匈奴や羌が蜂起するとこれを抑えるため、【王莽】に騎都尉に任じられた*2

 25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなると、三水縣の豪族に担ぎあげられ、漢の宗廟の継承を宣言。上將軍、西平王を名乗り、羌や匈奴に使者を送り和親した。また、【單于輿】に招かれ、匈奴の地に入り漢帝として擁立された*3

 29年(建武5年)、單于輿の求めに応じた【李興】、【閔堪】に迎えられ、五原郡九原縣に入り拠点とした。12月、天子を自称して五原郡、朔方郡、雲中郡、定襄郡、鴈門郡を取り各郡に太守を設置。更に匈奴の兵を用いて後漢の北辺を侵略した*4。また、翌30年(建武6年)6月には配下の【賈覽】が代郡太守の【劉興】を討ち取り代郡も勢力下に入れた*5

 しかし31年(建武7年)冬、理由は不明だが李興を殺害。それにより朔方太守の【田颯】と雲中太守の【橋扈】が後漢に寝返ることになった*6

 33年(建武9年)冬、代郡高柳縣を拠点とし、匈奴の兵を連れてたびたび後漢の国境を攻めるが故安縣では【王常】に敗れ*7、拠点であった高柳縣は34年(建武10年)1月、【呉漢】、【王覇】、【陳訢】らに落とされた*8。そして続く36年(建武12年)には賈覽と共に雲中郡を攻めるが失敗し、九原縣の留守居であった【隨昱】に裏切られた。また、9月には鴈門郡平城縣を守っていた配下の【尹由】も部下に裏切られて殺害されてしまった*9。次々に拠点を失ったため、最終的には37年(建武13年)2月に10数騎の兵のみを連れて匈奴の地に逃れた*10

 逃亡中は匈奴烏桓の兵と共に後漢の国境を多数侵していたが、39年(建武15年)2月に代郡の高柳縣に戻ると翌40年(建武16年)10月に【光武帝】に降伏の使者を送る。光武帝からは匈奴との交渉役を期待されて許されると、繒2万匹を賜り、代王の地位に据えられた*11

 しかし41年(建武17年)1月、詔により洛陽に入朝する段に突如入朝は翌年に変更するよう命じられた。これに不審を感じて後漢に対し叛乱を起こし、閔堪、【閔林】と共に数ヶ月間戦った*12。そして42年(建武18年)5月、匈奴の兵に迎えられ妻子と共に匈奴の地に入る。その後は同地に留まり続け、10数年後、病死した*13

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 盧芳 字君期,安定三水人也,居左谷中,王莽時,天下咸思漢德,芳由是詐自稱武帝曾孫劉文伯。

*2:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 王莽末,乃與三水屬國羌胡起兵。更始至長安,徵芳為騎都尉,使鎮撫安定以西

*3:

後漢書』巻一上光武帝劉秀紀第一上

 赤眉殺更始,而隗囂據隴右,盧芳起安定。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 更始敗,三水豪傑共計議,以芳劉氏子孫,宜承宗廟,乃共立芳為上將軍、西平王,使使與西羌、匈奴結和親。
 乃使句林王將數千騎迎芳,芳與兄禽、弟程俱入匈奴。單于遂立芳為漢帝。以程為中郎將,將胡騎還入安定。

*4:

後漢書』巻一上光武帝劉秀紀第一上

 十二月,盧芳自稱天子於九原。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 五年,李興、閔堪引兵至單于庭迎芳,與俱入塞,都九原縣。掠有五原、朔方、雲中、定襄、鴈門五郡,並置守令,與胡通兵,侵苦北邊。

後漢書』巻三十上蘇竟楊厚列傳第二十上

 建武五年冬,盧芳略得北邊諸郡,帝使偏將軍隨弟屯代郡。

*5:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 代郡太守劉興擊盧芳將賈覽於高柳,戰歿。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 六年,芳將軍賈覽 將胡騎擊殺代郡太守劉興。

*6:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 冬,盧芳所置朔方太守田颯、雲中太守喬扈各舉郡降。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳後以事誅其五原太守李興兄弟,而其朔方太守田颯、雲中太守橋扈恐懼,叛芳,舉郡降,光武令領職如故。

後漢書』志第十八五行六

 冬,盧芳所置朔方、雲中太守各舉郡降。

*7:

後漢書』巻十五李王鄧來列傳第五

 九年,擊內黃賊,破降之。後北屯故安,拒盧芳。

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 時 盧芳 據高柳,與匈奴連兵,數寇邊民,帝患之。

*8:

後漢書』巻二十銚期王霸祭遵列傳第十

 明年,霸復與吳漢等四將軍六萬人出高柳擊 賈覽,詔霸與漁陽太守陳訢將兵為諸軍鋒。匈奴左南將軍將數千騎救覽,霸等連戰於平城下,破之,追出塞,斬首數百級。

*9:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 秋九月,平城人賈丹殺盧芳將尹由來降。

*10:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 盧芳自五原亡入匈奴

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 十二年,芳與賈覽共攻雲中,久不下,其將隨昱留守九原,欲脅芳降。芳知羽翼外附,心膂內離,遂棄輜重,與十餘騎亡入匈奴,其眾盡歸隨昱。

*11:

後漢書』巻二十銚期王霸祭遵列傳第十

 是時, 盧芳與匈奴烏桓連兵,寇盜尤數,緣邊愁苦。

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 盧芳自匈奴入居高柳。

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 盧芳遣使乞降。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 十六年,芳復入居高柳,與閔堪兄林使使請降。乃立芳為代王,堪為代相,林為代太傅,賜繒二萬匹,因使和集匈奴

後漢書』志第十天文上

 盧芳從匈奴入居高柳,至十六年十月降,上璽綬。

*12:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 詔報芳朝明年正月。其冬,芳入朝,南及昌平,有詔止,令更朝明歲。芳自道還,憂恐,乃復背叛,遂反,與閔堪、閔林相攻連月。

*13:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 盧芳復亡入匈奴

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 匈奴遣數百騎迎芳及妻子出塞。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第

 芳留匈奴中十餘年,病死。