閔堪(Mǐn Kān)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下の武将。代郡の人。兄は【閔林】。25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなり、各地で多くの群雄が挙兵する中、同様に将軍を自称して挙兵した*1

 29年(建武5年)、【單于輿】の求めに応じ【李興】と一緒に盧芳を迎え、共に五原郡九原縣に入り拠点とした*2。以後は盧芳配下で働き、33年(建武9年)6月に代郡の高柳縣が後漢の【呉漢】、【王常】、【朱祐】、【侯進】らに攻められた際は【賈覽】と共に戦い、匈奴の援軍や雨に助けられながら守り抜いた*3

 40年(建武16年)、匈奴の地から高柳縣に戻った盧芳から【光武帝】への降伏の使者として遣わされる。光武帝からは代郡の相に任じられたが*4、翌41年(建武17年)、盧芳が光武帝に叛くとそれに従い数ヶ月戦った*5

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 初,五原人李興、隨昱,朔方人田颯,代郡人石鮪、閔堪 ,各起兵自稱將軍。

*2:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 五年,李興、 閔堪 引兵至單于庭迎芳,與俱入塞,都九原縣。

*3:

後漢書』巻二十銚期王霸祭遵列傳第十

 九年,霸與吳漢及橫野大將軍王常、建義大將軍朱祐、破姦將軍侯進等五萬餘人,擊盧芳將賈覽 、閔堪於高柳。匈奴遣騎助芳,漢車遇雨,戰不利。

*4:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 十六年,芳復入居高柳,與 閔堪 兄林使使請降。乃立芳為代王,堪為代相,林為代太傅,賜繒二萬匹,因使和集匈奴

*5:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳自道還,憂恐,乃復背叛,遂反,與 閔堪、閔林相攻連月。