郭涼(Guō Liáng)

説明

 (?ー?)【後漢】の武将。字は公文。【右北平郡】の人。【兵曹掾】、【廣武侯】、【鴈門太守】。身長は8尺、勇猛な武将であり、かつ経書に通じ知略もあったため北方で名を知られていた*1。はじめは【彭寵】との戦いに功があり、後に鴈門太守となると【盧芳】の勢力下にあった同郡を平定した。

年譜

 ●【幽州】牧の【朱浮】に兵曹掾として招かれ、彭寵との戦いに功があったため廣武侯に封じられた*2

 ●33年(建武9年)8月、【杜茂】と共に鴈門郡繁畤縣に拠る盧芳勢の【尹由】を攻めるが【賈覽】率いる【匈奴】兵の救援もあり敗れた*3

 ●36年(建武12年)9月、鴈門郡平城縣の【賈丹】、【霍匡】、【解勝】の3名が尹由を殺害して降ってくると、彼らを侯に封じ*4、また同郡内の豪右である【郇氏】の配下を殺害し弱体化させ鎮圧し、その後一ヶ月で鴈門郡を平定した*5

 ●子は【中郎】、左右の【宿衞】として【光武帝】に引き抜かれた*6

*1:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 涼字公文,右北平人也。身長八尺,氣力壯猛,雖武將,然通經書,多智略,尤曉邊事,有名北方。

*2:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 初,幽州牧朱浮辟為兵曹掾,擊彭寵有功,封廣武侯。

*3:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 九年,與鴈門太守郭涼擊盧芳將尹由於繁畤,芳將賈覽率胡騎萬餘救之,茂戰,軍敗,引入樓煩城。

*4:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 丹等聞芳敗,遂共殺由詣郭涼;涼上狀,皆封為列侯,詔送委輸金帛賜茂、涼軍吏及平城降民。

*5:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 自是盧芳城邑稍稍來降,涼誅其豪右郇氏之屬,鎮撫羸弱,旬月閒鴈門且平,芳遂亡入匈奴

*6:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 帝擢涼子為中郎,宿衞左右。