橋扈(Qiáo Hù)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下の武将。名前表記は喬扈とも。

 29年(建武5年)に盧芳軍の勢力下に入った雲中郡の太守となっていたが、31年(建武7年)冬、【李興】が盧芳に殺害されたのを見て恐れ【光武帝】に降った。光武帝からはそのまま雲中太守に任じられた*1

 36年(建武12年)、盧芳が雲中郡を攻めているがその時点でも太守であったかは不明。

*1:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 冬,盧芳所置朔方太守田颯、雲中太守喬扈各舉郡降。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳後以事誅其五原太守 李興兄弟,而其朔方太守田颯、雲中太守橋扈恐懼,叛芳,舉郡降,光武令領職如故。

郇氏(Xún Shì)

説明

 (?ー?)【盧芳】勢の武将。鴈門郡の豪右。36年(建武12年)、【郭涼】に配下を殺害され弱体化して鎮圧された*1

*1:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 自是盧芳城邑稍稍來降,涼誅其豪右郇氏之屬,鎮撫羸弱,旬月閒鴈門且平,芳遂亡入匈奴

石鮪(Shí Wěi)

説明

 (?ー?)。【代郡】の人。25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなり、各地で多くの群雄が挙兵する中、将軍を自称して挙兵したうちの一人*1

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 初,五原人李興、隨昱,朔方人田颯,代郡人石鮪、閔堪 ,各起兵自稱將軍。

劉興(Liú Xīng)

説明

 (?ー30年)【代郡太守】。30年(建武6年)6月、同じ代郡内の高柳縣に拠る【盧芳】勢の【賈覽】を攻めるが【匈奴】の騎兵を率いて戦う賈覽の反撃にあい戦死した*1

*1:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 代郡太守劉興擊盧芳將賈覽於高柳,戰歿。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 六年,芳將軍賈覽將胡騎擊殺代郡太守劉興。