霍匡(Huò Kuāng)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下・【尹由】の武将。鴈門郡の人。

 尹由と共に平城縣を守っていたが、36年(建武12年)9月、盧芳の雲中郡攻略の失敗を聞き【賈丹】、【解勝】と共に尹由を裏切り殺害し後漢の【郭涼】に降った。その後郭涼により列侯に封じられたという*1

*1:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 先是,鴈門人賈丹、霍匡、解勝等為尹由所略,由以為將帥,與共守平城。丹等聞芳敗,遂共殺由詣郭涼;涼上狀,皆封為列侯,詔送委輸金帛賜茂、涼軍吏及平城降民。自是盧芳城邑稍稍來降,涼誅其豪右郇氏之屬,鎮撫羸弱,旬月閒鴈門且平,芳遂亡入匈奴。帝擢涼子為中郎,宿衞左右。

田颯(Tián Sà)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下、後漢の武将。朔方郡の人。25年(更始3年)に【更始帝】が亡くなり、各地で多くの群雄が挙兵する中、同様に将軍を自称して挙兵した*1

 その後盧芳に従い、29年(建武5年)に盧芳軍の勢力下に入った朔方郡の太守となっていたが、31年(建武7年)冬、【李興】が盧芳に殺害されたのを見て恐れ【光武帝】に降った。光武帝からはそのまま朔方太守に任じられた*2

 時が経ち、57年(建武中元2年)には隴西郡の長史であったが允吾縣の唐谷で西羌と戦い敗れ戦死した。*3

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 初,五原人李興、隨昱,朔方人田颯,代郡人石鮪、閔堪 ,各起兵自稱將軍。

*2:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 冬,盧芳所置朔方太守田颯、雲中太守喬扈各舉郡降。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳後以事誅其五原太守 李興兄弟,而其朔方太守田颯、雲中太守橋扈恐懼,叛芳,舉郡降,光武令領職如故。

*3:

後漢書』巻八十七西羌傳第七十七

 遣謁者張鴻領諸郡兵擊之,戰於允吾、唐谷,軍敗,鴻及隴西長史田颯皆沒。

橋扈(Qiáo Hù)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下の武将。名前表記は喬扈とも。

 29年(建武5年)に盧芳軍の勢力下に入った雲中郡の太守となっていたが、31年(建武7年)冬、【李興】が盧芳に殺害されたのを見て恐れ【光武帝】に降った。光武帝からはそのまま雲中太守に任じられた*1

 36年(建武12年)、盧芳が雲中郡を攻めているがその時点でも太守であったかは不明。

*1:

後漢書』巻一下光武帝劉秀紀第一下

 冬,盧芳所置朔方太守田颯、雲中太守喬扈各舉郡降。

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 芳後以事誅其五原太守 李興兄弟,而其朔方太守田颯、雲中太守橋扈恐懼,叛芳,舉郡降,光武令領職如故。

程恂(Chéng Xún)

説明

 (?ー?)【盧芳】配下・【隨昱】の武将。36年(建武12年)、盧芳を裏切った隨昱に【光武帝】への使者として遣わされた*1

*1:

後漢書』巻十二王劉張李彭盧列傳第二

 昱乃隨使者程恂詣闕。

郇氏(Xún Shì)

説明

 (?ー?)【盧芳】勢の武将。鴈門郡の豪右。36年(建武12年)、【郭涼】に配下を殺害され弱体化して鎮圧された*1

*1:

後漢書』巻二十二朱景王杜馬劉傅堅馬列傳第十二

 自是盧芳城邑稍稍來降,涼誅其豪右郇氏之屬,鎮撫羸弱,旬月閒鴈門且平,芳遂亡入匈奴